ゲイジは目覚めて、ボストンがニューイングランド中から集まった民兵の2万人とも言われる大部隊に包囲されていることに気付いた。この時、火薬警鐘の頃とは異なり、血が流されたという噂は本当のことになり、独立戦争が始まっていた。周りの植民地から兵士と物資が送り込まれ、植民地軍の数は膨らみ続けた。大陸会議はこれらの兵士を大陸軍として認め財政的な裏付けも取り始めた。戦争が始まったその時点でも、ゲイジはボストンに戒厳令を布くことを拒んだ。ゲイジはボストンの住人に武器を置くように説得し、その見返りに誰でも町を出て行くことを認めた。
この戦いはその成果や損害から見ると大きな戦闘とは言えない。しかし、耐え難き諸法の背後の政治的戦略と、火薬警鐘の背後の軍事的戦略という観点で見れば、この遠征は戦争を回避するために始めたにも拘わらず戦争に突入させ、所期の目的の武器の押収も果たさなかったということで、イギリス軍の重大な失敗であった。
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実際の戦闘はイギリスの政策によって戦争へ拡大した。この戦闘から4日以内にマサチューセッツ植民地議会は民兵からおよびイギリス兵の捕虜から多数の宣誓供述書を集めた。戦闘後1週間でゲイジがロンドンに宛てて公式の状況説明書を送ったという情報を得ると、植民地議会はこれら宣誓供述書を100通以上早舟で送った。この報告はゲイジの報告書が届く2週間も前にロンドンの同情的な役人に届けられ、新聞にも掲載された。ゲイジの公式報告書は詳細が曖昧に過ぎて人々の考え方に影響を及ぼさなかった。植民地に対して敵対的であったジョージ・ジャーメインですら、「ボストン市民はまさに国王の軍隊を侵略者にし、勝利を宣言した」と記した。ロンドンの政治家はその政策や命令にも拘わらず、この紛争の責任をゲイジに押しつけようとした。ボストンのイギリス軍ですらレキシントンとコンコードの件でゲイジを非難することになった。
アメリカの大地の上では、植民地にいるおよそ知性あるものはどちらの側に付くかを選ばなければならなくなった。ジョン・アダムズは戦いの次の日にブレインツリーの家を離れ、馬で戦場に向かった。アダムズは「賽は投げられ、ルビコン川を渡った」ことを確信させられた。フィラデルフィアのトマス・ペインは、以前は植民地と本国との議論が「ある種、法の解釈の問題」だと考えていたが、戦いの知らせを聞いて、「イングランドの頑固で気むずかしいファラオを永遠に拒絶」した。ジョージ・ワシントンはマウントバーノン農園で知らせに接し、友人に書き送った「かって幸福で平和であったアメリカの大地が、血で汚されるか奴隷となるかということになった。悲しい選択肢だ!しかし有徳の士はその選択を迷うであろうか?」。辺境の狩人達は6月に戦いの知らせを聞いて、その宿営地をレキシントンと名付けた。その地は現在のケンタッキー州レキシントン市となっている。